Donburi : South Shikoku’s food from Mile Nagaoka on Vimeo.

Client : AMA /Music : “House of Memories” by James Childs from Music bed

ー海の幸三昧編 

撮影内容 

徳島県阿南市:ハモ丼

高知県室戸市:キンメ丼

高知県安芸市:釜あげちりめん丼

 

 

ZEKKEI : South Shikoku’s grand views from Mile Nagaoka on Vimeo.

Client : AMA  / Music : “Crimson Hope” by TOLO from Music bed  / Directed,filmed and edited by Mile Nagaoka

ー絶景編

撮影場所:

【阿南】 蒲生田岬(四国最東端の地) お松大権現(勝負・願い事の神様)津峰神社(「阿波の松島」と呼ばれる橘湾)北の脇海水浴場(2kmに及ぶ遠浅の砂浜)牛岐城跡公園(光のまち阿南)

【室戸】 御厨人洞(弘法大師が「空海」と名乗った場所) 室戸世界ジオパーク(大地誕生の最前線)幕末の志士中岡慎太郎像 室戸スカイライン展望台 イルカとのふれあい 室戸ドルフィンパーク だるま夕日の名所

【安芸】 野良時計(安芸のシンボル)岩崎弥太郎生家(弥太郎が日本列島になぞらえた石)土居廓中(武家屋敷が残る町並み)内原野公園 延寿亭 土佐湾を望む大山岬 だるま夕日の名所

 

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全然発表できていないが(クライアントの発表のタイミング的に)

2014年の年の瀬はほんとうに色んな仕事が重なって急がしMAXだった。
年が明けてようやくこれも発表できる。(他にもう一本未公開なのがあある)
写真と違い、映像というのはほんとうに手間がかかる仕事だと重ね重ね思う。

ほんとうは取材日誌みたいなものを書きたいのであるが、
2014も怒涛のように過ぎていって、一々の仕事をイキセキきりながら
なんとか捌いているのが関の山なゆえ、全然書けない。

この仕事も9月に娘が産まれる前後の慌ただしさの中で撮影され、
年末のバタバタの中で編集したので、記憶というものが余りない。
なにげに二年越しの仕事である。

ただただ、ここに出てくるドンブリはめちゃめちゃうまく、
空海の名前が産まれた場所の明暗と、岩崎弥太郎生家の残像、
そしてアシスタントがカメラを壊した光景が脳裏にこびりついている。
こうしてカメラマンは、また次の目的地へと向うのである。

 

 

 

26 1月 ’15 Client Works

CLOTH by ホマレノイエ from Mile Nagaoka on Vimeo.

 

ホマレノイエのラグジュアリーブランド「CLOTH」。
素材からはじまり快適性や意匠性全てにおいて
クオリティーの高いワンランク上の住宅。
cloth.jpn.com

前回のTableに引き続き、長岡がブランドネーミングを担当。

CAST:

塩野目由紀子
杉浦史典

衣裳・小道具:
SLOW&STEADY 岡﨑昌弘、楠本恭子
スチール:金苗健太

撮影/編集 長岡参(長岡活動寫眞)
Filmed and Edited by Mile Nagoaka

26 9月 ’14 Client Works

piano : Harumi Nomoto / fretless bass :  Ryoji Orihara / drums : Sohnosuke Imaizumi

Action Paint : Keiichiro Furukado / Camera assistant : Taigo Kawaguchi (NMP) / Special Thanks : Plat Ease

Camera & directer,editor : Mile Nagaoka (NMP)

 

友人のピアニスト、野本晴美さんに依頼され制作した映像です。

今となっては数少ない東京時代の友達で、ピアニストとしては知る人ぞ知る存在。

雨の表現などにどうしても120Pを使いたかったので、プラットイーズさんにREDをお借りしました。

撮影場所は神山のお茶工場。

途中のカラフルな部分は、アーティストの古門圭一郎さんに実際にアクションペイントをしてもらい撮影しました。

映像は他に3バージョン程あり、また順時公開していくのでお楽しみに。

 

15 5月 ’14 Client Works

MILE NAGAOKA 2011-2014 from Mile Nagaoka on Vimeo.

 

「俺は「地域」という浮ついた言葉が大嫌いだ」ということに自覚しだしてから、まだそう間が経ってはいない。それは、或種の幻想や逆転したコンプレックスが吐く言葉であり、「地域」というものの実態そのもの、そしてそこに住まう人々は捨象されているからだ。

 

気怠さと旅行気分の陽気なロケで撮られた幾多の映像たち、そこに「人生」と「顔」が写っているか。

手仕事や悲喜こもごもが、写っているか。無論過剰なまでに切実なものを追う先達がいるのも知らんではないが、そういう人にどこかで遭うことは稀である。(あ、一度富士山を臨む早朝の山頂で、山の写真家と出会ったっけ)

 

自分が「産土」という言葉に込めた(いと思った)のは、そういった「地域」や手垢でギトついた「グリーン」等という言葉たちと、その無邪気な吐露者等への明確なアンチテーゼであった。

 

 

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21 4月 ’14 Client Works

sa-rah 2014 from Mile Nagaoka on Vimeo.

music by SonobeNobukazu
photograph by Hideaki Hamada
book design&edit&text Kanako Mori
filmed, edited by Mile Nagaoka
clothes design&coordinator:Chiaki Boshi

sa-rah.net

19 4月 ’14 Client Works

イエレポート case09 from Mile Nagaoka on Vimeo.

 

撮影・編修:川口泰吾

ディレクション:長岡参

 

イエレポート case10 from Mile Nagaoka on Vimeo.

 

撮影・編修:川口泰吾

ディレクション:長岡参

 

15 3月 ’14 Client Works

 

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あらためまして今年もよろしくお願いします、マイルでございます。

編集でバッタバッタ、去年の疲れでボッロボッロな僕ですが、

息抜き的なことも含めて、久々の機材ブログを。

HDDがだいぶ容量がなくなってきたんで、迷いましたがポチっちゃいました。

ラトックシステム RS-EC32-U3R (約8000円)やっすー。

今使っているのが、16TBで5Bayの林檎派で買ったあんまよくないHDDなんですが、

やすさと、バックアップでいいやーということで、色々調べてこれにしました。

mac環境での映像編集って、未だにTundeboltか、USB3.0かって迷いますが、

Thunderbolt先生はまだ高いし、僕みたいなもんには未知数なんで、USBチョイスです。

 

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13 1月 ’14 mileblog

以下は、2012年9月30日にFBのノートに書きなぐったものである。

1年以上過ぎた今久しぶりに再読してみて、若書きや知識や情報の欠乏を感じる。

特に2年間あちこちを回って来た前と後では、日本というものの現状、田舎というものの現状に

対して大きな認識の差があるとは言っておかなければならない。

それでもここで述べている当時の心象と現在のそれと、そう大きな変化はない。

そういうことからここでこちらのブログに再掲しておきたいと思うとともに、

こういう「田舎暮らし」にまつわることを、今後発信して行きたいとも思う。

 

 

最近僕の周囲が慌ただしい。様々な思惑、様々な業種の人たちが、入れ替わり現れる。気分的には、嫁と子と犬に囲まれた、ただの住民と化しているので、よくもまーこんな田舎にみんな好き好んでくるなあという牧歌的心象すら抱いているのであるが、僕自身Iターンの端くれとして雑誌に掲載されたりなどという、望む望まないにかかわらない取り上げられ方をし出していることに、少なからず自分自身としても違和感を抱えている中で、僕がどういうスタンスでここで生きているかという所見を、この際ちゃんと表明しておいた方がいいような気がしたので以下に記すことにする。もちろん、長文になるであろうこんな文を誰も読む必要はないので、スルーしてもらって構わないが、仮に読まれた後で、価値観のズレを指摘されたり、非難をされたり、議論を吹っかけられたりすることは、歓迎もしないが厭わない。また一表現者及び、一移住者の思考としてなんらかの問題・議題を提出することになる可能性もあるが、ほぼ戯言の類であると看過されて構わないと始めから申しておく。

 

ー「あんた地域を食いものにしてるんだ」と、4年ほど前墨田区のとある場所で言われたことがある。

誰だったか、サヨク的な思想を持った中年の建築家にだったか。僕は鬼の形相で反駁し、抵抗し、ちょっとした喧嘩騒ぎになった。周囲からは、そんなにムキになるのなら、あんたはちょっと違うんじゃない?と言われ宥められたが、僕の怒りは収まらなかった。「地域」という言葉をやたら神聖化し不可侵なものにする輩の存在に、この時始めて気がついたのであった。そもそもの言われたきっかけは、僕がその当時移住した墨田区京島のドキュメンタリーを、町の文化祭のために制作し、それを上映したからだったのだが、「食い物」と云われるのは、論外も論外、全くもって自腹でスタッフと機材とを掻き集め、何度も取材の現場と事後の徹夜を繰り返し映像化したのであって、その地域から金をふんだくってやろうなどという意識は微塵もないし、そもそもその場所にふんだくれるだけの財も、ない。どちらかというと「表現者としての義侠心」のようなもので動いていたように思う。もっと噛み砕いてみれば、老人たちが持っている郷土的な心象や知見を、次代に引き継ぎたいというスイートな気持ちも十二分に持ち併せていた。おそらくそれがオオヤケから依頼されたビジネスだったとしても、僕はそのような気概で取り組んだに違いないが、ましてや自前である。故に「怒る」という感情に至った。イチャモンもいいところだし、瓢箪に駒だったし、ならば「おまえがやってみろ」と思ったのであるが、だいぶ時が経ち振り返ってみて、ほんの僅かだが、「食い物」にした部分もあったな、とやや自省しなくもない。それはその地域の来歴や老人たちの現在を、ある種の「ネタ」として捉えたからだ。

 

「ネタ」にする。そんなことは表現者なら当然の欲望である。そもそも「ネタ」を明確にし、認知し、向かわない限り、取材という行為も撮影という行為も成立しえない。が、テレビを中心としたメディアが、それを余りにも過剰に、己たちの保身と増殖のために使ったがゆえに、人々は嫌悪を抱き、頑なに拒みもするのも又事実である(と同時に情報の消費者として、未だにそこに闇雲に群がっているのも事実ではあるが)。だからこんななんの肩書きも腕章も付けていない僕にですら、「メディアの人は」とか「撮影はちょっと」等と日頃云われてしまうのだ。大手のメディアだろうと、個人が自前で作品として制作するものであろうと、大差ないと思われているのが厳然たる事実だ。そんな僕の立場から言えるのは、彼らがあまりにも事実関係を無視し、反故にし、自分たちのメッセージのために粉飾し、切り刻み、編集している(もっというと、不必要に長時間の取材撮影をし、品行悪く周囲をうろつき、無駄に多数のスタッフを引き連れ、根掘り葉掘り不躾な質問をし、しかもその成果物が事実関係を無視してすらいる)、からなのだが、だが僕自身、今語るべき物/語りうる物は何なのか?を問い続けた挙句として、老人たち、限界集落といった現代の「荒び」に目が行くのだし、懺悔してみれば、僕はどうしようもなくそれを「ネタ」として利用している。ゆえに「食い物」にしているという表現は、妥当でないとはいえない。(たとえそれが視聴率拡大のためでも、販売促進のためでなくても、今までで初であるとか、これを自作として公開したいという僥倖心がなくはないし、そういった疚しさはどうしても拭えないことを報告しておく。また、現在その「ネタ」を巡る助成事業を委託されている身でり、それをシノギにしている立場ですらある。)

 

上記を踏まえ、今この神山という地に至り、一住民として住んでいる自分はどうなのか。そもそもがただのきっかけとして、神山というフィールドを与えられ、テーマもそこから探しだした。そう、勝手に、である。その過程で、ある散髪屋の老婆のドキュメンタリーを撮る中で、短期滞在を、中長期滞在にさせ、かつ長期滞在をこじらせ、(いつの間にか結婚と子供の出産を済ませ)ついには彼女の家の前に住んでしまったわけだ。なぜか?と問われてもよく分からない。僕は彼女の存在に圧倒され、彼女の内面の修羅を見、それを映像に収めたいと思った。彼女はいつの間にか被写体以上の存在になり、親よりも健康を心配し、内面を吐露仕合い、毎日のように触れ合うようななにものかになった。いわば恋のように。

 

くり返しておくが、そもそも神山(or KAMIYAMA)に来たかったというわけでもなく、レジデンスやらサテライトオフィスやらに興味があったわけでも何もない。ましてやスローライフが送りたかったわけでも、放射能から逃げてきた訳でもなかった。ただただ、表現という行為の延長として、東京の微温湯の中に身を据えていては分かり得ない「現在の肖像」をレンズ越しに知りたいと思い、偶然の縁を伝ってここまで来ただけであるので、神山に意図的に、自ら望んで、地域や町おこしや自分探し等のキーワードで来た人々の心象は、申し訳ないが、まったく共有できない。また、そこにビジネスチャンスを見出しやってきた人々の思惑とも僕のそれは違っている。そもそも地域においてビジネスチャンスは指折り数えるほどだと思っているし、現にそうだ。その地域の一般家庭ですら、所得が低下し、仕事先も少なくなりゆく中で、なぜ不意にモメントとコンタクトする機会のあった一移住者(一事業社)が、自己を延命させるためにやってくるのか、そこで地域の経済を吸い上げてしまうのか。その地での平均給与以上のギャランティを確保できてしまうのか。そこで雇用なりを僅かでもつくっていれば別だが、そうでもない限りは、同様の地元の若者たちや中高年者たちの仕事の機会を奪うことになるのであり、食い物にする以上に非常にナンセンスなことをしているといえる。(時代の目から見て全くもって遅延している表現のまま癒着的に仕事として成立しているようなものは淘汰されていいとは思うが)例題としてあげてしまって申し訳ないが、若い移住者の一部が、土木作業の臨時仕事を手伝うのは大いに間違いであったと思う。そのような仕事にしかつけない人々の絶対的仕事量を切迫して何になるのか、と。それは行政が取り締まってもいいようなことであるとすら思う。それは己の口を糊するために必要なことであるのは分かるが、なんのために地域にやってきたのかを彼らは真剣に考えた方がいい。若い人間と触れ合えて気持ちが若くなったとか、若者のいない町に活気が戻った、などという表層的な牧歌論に共感できるほど、限界と呼称された地域の修羅はスイートではないはずだ。右も左も、腕に職も、身に色もついていない若者が、自由自在に欲望を結実させる桃源郷であるほど、田舎の経済は甘くはないのだ。(とはいいつつ、山村留学等で都会で苛められていた子どもが活発さを取り戻したり、ある種のモラトリアムとしての機能を田舎が背負うことに関してまで否定はしない。或はそのような状態から抜けだそうと足掻く姿には、手を差し伸べようとする気持ちを禁じえない。)田舎に限ったことではないはずだ。僕が住んでいた東京の下町で、町おこしやら新タワー特需やら景気のイイ事に踊っている裏で、多くの障害者や末期老人たちが悲痛な人生を送っていた光景を僕は何度も目にしたのを忘れてはいない。深甚な介護があり、年金のみに怯える暮しがあり、業態の変化に伴う数多くの衰退があり、夢と現実のハザマに彷徨う多くの倦怠がある。新タワーの巨大なフォルムは、彼らの影をいっそう濃く、深くさせてしまったことを僕は忘れてはいない。

 

…いざ、自分に矛先を向けてみると、僕は子どもが去年の年末に誕生するまで、笑えるほど「食べる」ということについて全く考えていなかった。そう、僕は片輪なのだ(笑)。気取ったことをいえば、生活者としての自分よりも、表現者としての自分を優先させていていた。(生活者としての自分は当然そこにいる、僕は全財産を自分の機材を購入することにつぎ込み、東京から神山に越してくる時に使っている。明日の糧に窮することは往々にしてあるし、これからもあるだろう)昨年撮影した、女木島の映像にしても、まったくの自腹である。大きなプロダクションだったりならば、予算をどこからか引っ張ることも可能だろう。文化庁等の省庁の予算を引っ張ることも可能だろう。だが、僕はたかだか個人の「カメラを持った男」に過ぎない。しかも今の時代にあって盛んに喧伝されているようなネタを扱っているわけでもないし、今風の表現をしているわけでもない。更に僕には明確な政治的メッセージがあるわけでもない。それが、どのように公開され、どのように人々の中で膾炙されるか等ということも夢想こそしけれ、ほぼノープランだと言っていい。だが、僕はこれが「今語るべき情報である」と本能的に思っている。僕は小さな町工場にも、困窮する老人たちにも、若者のよりつかない黴臭い鄙びた祭りにも、一枚の煎餅の成り立ちにも、不可避的に興味がある。それらは、現在に到るまで、「語るべきもの」とみなされてこなかった対象たちだ。映像は広告に従事してきた。し過ぎてきた。そこで甘い蜜を吸いすぎて自堕落になり、高飛車になりすぎてしまった。マーケティング的なデータにのみ拘泥し、それがどういう人たちであるか知ろうともしなかった。語るべきは、生活者そのもであった、ということを忘却してしまった。(いや、始めから知らなかった)

 

僕は、孤独な闘いを挑んでしまった。それはずっとこの7年間ぐらい変わらないテーマだ。生活者の肖像と心象。それを興味本意に作品として結実させようとすると、自腹という選択しか今のところなくなる。どこかから予算を付けるという才能が、悲劇的に欠けているからだ。が、僕は興味を抱くというある種の性癖的行為を、止めることがどうしてもできない。目はそちらをみてしまう。スカートをはいた女性を本能的にチラ見してしまうのと同じだ(笑)そこはもう、ロジックではないのだ。ここが、僕の戦場であり、ノルマンディーの海岸なのだ(やれやれ)。…が一方で、「自腹だというが、おまえはどのようにして食っていたのか?」という粗暴な質問が投げられるのは自明である。不用意な人々は得てして反射的にそう聞いてくる。それに対しては、僕は去年の一年間、東京の小さな制作会社の社員として籍を置きながら、神山で生活していた。そこの社長と僕との、模索だった。ゆえに、最低限生きるだけの給料をなんとか確保しつつ生活することができたと説明可能だったのだが、今年の一月からは個人事業であるので、運と縁でやってきた仕事を糧にしていると云うしかない。実際そうだ。無論、家賃の低いこの場であるからこそ成立しているのであって、家賃が未だに高すぎる都会では首を括るしかないモデルである。

 

…だが、僕は「信じて」いるのである。盲目的に。「信仰」だといってもいいほどに。信じている、というよりは、絶望的なほど、楽天的に疑っていないというほうが誠実だろうか。こっちにやってきてしばらくしてから、Mさんに云われたことがある。「ここでは、自分の出来ることを出し惜しみする暇がまったくないのだ」ということを。二年住んでみて、まったくそのことを同意するのだ。東京で勤務していて、クリエイティブ・ディレクターという肩書きがついたことが二度ある。が、僕はほとんどなんのクリエイティブ・ディレクションも担っていなかった(担わされていなかった)。その職能にあるものがそれを担わなくていいほど、余剰なものに金を払う能力がそこにあったわけだ。が、そんなゆとりは今の僕にはまったくといっていいほどない。身体の弱さをないことにして、あらゆる場に赴き、あらゆる仕事をこなさなければならない。そんな中で、僕には自分でも気がついていないところに特性と傾向があったのか、そこを期待され仕事の依頼されるケースが増えてきた。それは今まで強みとしてはまったく認識していなかった特性であった。そして多くの仕事で、自営業者としてまったく代わりが利かない立場を担っている。身体が資本であり、エクスキューズはまったく利かない。父親としての自分も、旦那としての自分も、表現者としての自分も、毎日がリミットを更新する作業である。ノープランの中で、縁が縁を呼び、仕事となる。どんなにギャラが安くても、今の僕は全身全霊を打ち込めている。それをやり続ければ、自分の生計は維持できると今は思っている。

 

生計を立てるということ、それを「食い物」にしていると今誰かに罵られても、別に否定はしない。僕がここにいることで、誰かの生活を大幅に阻害し、収入を下げさせてしまっているのならば、たぶんここから出て行く道を選ぶだろう。が、僕の特性や特色を誰かが必要としてくれる限り、僕は「カメラを持った男」であることを続けようと思う。それだけなのだ。洗いざらい語ってしまえば、僕は今年映像を完成させ、仕事を満足にできないのであれば、レンズとカメラを破壊し、すべてを辞めて他のカタギの商売にでも付こうとすら、真剣に考えていた。おかげさまでなんとか今日も晩飯が食べられるが、このような危機感はこれから日常化することになる。親には「安定してくれ」と言われるが、安定などどんな人にも存在していないと即答することにしている。僕が興味と仕事先としての視線を向ける中小企業も、不安定な会社の方が多いことだろう。そこは不安定な者同士のせめぎ合いなのだ。僕という漠然とした「広報装置」を、どのように不安定な企業や組織や個人が、扱うか。僕は思考すること、研磨することを止めはしない。僕の仕事は、それに賭け、共感してくれる人々との共同戦線だ。ローカルのクリエイティブはダサいとか、そういうことを東京の目線で語りたいわけでもない。金額の多寡という尺度でもない。僕の目安は、「僕が興味を持てるか」なのだ。ただ、それが結実するだけ、ということだ。東京に居る時、「こんなことをするために生まれてきたわけではない」というのが酒場での口癖だったように思う。だが、僕がこの世に生を受けた理由を、今問うのならば、「興味を形にすることだ」となんとなく言えるのである。

 

最後に場について書いておく。僕は「明日の神山」よりも、「今の神山」に興味があるのだ。生活者として。霧や靄が当たり前のように漂う山の風景を愛しているのだ。夏のすばらしさと、冬の厳しさ、その双方に身を置いてそれを遠慮がちに楽しんでいるのだ。ゆえに、周辺でかまびすしい風力発電問題にもなんら是々非々をどうこうするつもりはない。個人で考えたうえで、自分の一票を投じればいいと無邪気にも思っている。なぜ、今周辺で「明日の神山」を理想化・神格化し、その桃源郷から逆算して現在を否定するのか。ここは桃源郷性愛者のアレックス・カーに糞味噌に言われた通りの、コンクリートに埋め尽くされ、まともに主導的に内政も外交も悲劇の後処理もできやしない日本なのだ。そこを否定しだすのなら、僕はもはやこの国に住む力がなくなる。だが、僕はこの国がまだ、好きだ。汚点も含めたこの国の優しい人々と、それでも美しい風景が好きなのだ。今年に入って、様々な地域を旅することが増えてきたが、その折々で出会う風景や人々を見て、僕は未だ日本人であったことを思い出し、誇りに思いすらしている。ただ否定のみすることに僕は抗う。それはあまりにも安易であろうと。ヒステリックに例証をまくしたてても、人はなにも揺り動かされないのだ。身も蓋もない極論だが、本当に「明日の神山」を、はたまた「明日の日本」を是々非々するならば、政治家として立候補する他はない。それができなければ、つまり内部としてシステムを改変する側に立たなければ、ただの無為無策な戯言だ。もしくは福島の詩人のように、それぞれのフィールドから腹の底を絞りだし、なにかを語り出すことが大切なのだ。それは町づくりにも敷衍できよう。元気な町、元気がない町。カリスマ的リーダー、それがいない町。熱がある町と、ない町。そんなことを外部から批評しても、実はなにも始まらない。内発的になにかを発信し続けない限り何かが変わることも、何かを担うこともない。外から指摘すること、それがどんなに穿っていようと、それはただの一般論に過ぎないのだ。(人は一般論を愛し、一般論を拡散し、促される傾向にある)僕に出来るのは、カメラを据えて記録することだけだ。情報の表皮を撫でるのではなく、ただ見守るだけの不安定な定点カメラとして。それが「語るべき情報」として、或は人を動かすかもしれない。はたまた、ただの時間のゴミとして扱われるかもしれない。が、それは僕の問題ではない。映像は、鏡だ。鏡に写ったものをどう考えるかは、それを見た人々の問題なのだ。それが内在化した「カメラを持った男」としての唯一の町への貢献の仕方なのだと思う。そのような存在であるということを、僕はようやく受け入れだしてきている。

 

 

後記1: 一つ言い足りなかったのは、「地元」という語に関してである。鶴岡の山伏が僕に語ってくれた。「自分の祖先だって何代か前に他から移り住んできたんだ。そもそもが余所者だ」という言葉。マタギからも、6代くらい前に栃木から移り住んできたらしいとの言を聴いた。一代前から猟師になったらしく、その前は宮大工だったという。もっと言えば、東京の下町を取材した時も、そのほとんどが出自を異にする人々が集まり、移り住んだ、ということ。うちの親父の実家は長野にあるが、それも6代前に新潟から移り住んできたと聞いたことがある。…「地元」という言葉は、どこからどこまで適用されるのか。生まれ育った地という意味ならば、うちの子は徳島生まれなので、ここが地元であるが、その親たる僕ら夫婦は地元でないのか。…つまりが、そんなあやふやな言葉なのだ。それをあたかも神聖な言葉のように扱い、金科玉条のようにし、それ以外を差別化するための語として、あまりにも不用意に使用されていることに、相当な違和感がある。

 

後記2:「地元」という感情はどこから起因するのか。一つは生まれ育った記憶を担保とする感情である。その土地で、暮らしてきた様々な記憶が蓄積され、「記憶の年長者」としてふるまい、新参者を時に受け入れ時に排除する緩いシステムになる。摂取と排除という免疫のようなシステムは、当然といえば当然の働きだ。例を二三。朝鮮や中国からはるか昔に渡ってきた渡来人・帰化人のようにこれまでの日本には存在していなかったような専門的職種の職能たちは、排除するどころか丁重に扱われ、次第に同化していった(僕の母方の遠い先祖もその一人だったという)。焼畑、稲作、土木、建築、医学、宗教、芸術等々の根本的ベースは彼らが担ってきたのである。平家の残党伝説は、最古のIターンの歴史だとも捉えることも可能であり、彼らは排除されずに、共存し、土着化していった。(つまりが、その土地々々にとってボトルネックであるような職能に移住・移動に関しては、歴史的にみても比較的頻繁に行われていたということであり、現代でも当然起こりうるハナシである。)又、民間でも「客人信仰」のように、外部を内へ取り込むような働きもその裏で歴史的には存在していた。神話にある娘を客人たる神に差し出すようなことも、実際あったのだと想像されるし、現在まで続くお遠路へのお接待という文化も、そのような働きの延長線上にあると思われる。

 

もう一つは、地霊との交信という側面がある。土地を開墾するということは、その地の神に伺いを立て、承認をもらう代わりに神殿を建立し、以後代々に渡りそれを崇めてきた。山と共存するということにしても基本的には同じ思想のもと行われ、山から里に近い山を借り受け(里山)、その場で基本的な生活の糧を得るため、そこは入会地とし、崇めつつ共に働く場所とした。奥山に入る際は必ず山の神に祈り、狩猟や採集、伐採をする際も、神事のような段取りを経ていた。つまりその行為を人が行う場自体を、「地元」と呼ぶということだ。その観点からすると、現代になって入会地/共同所有という概念はなくなり、里山や鎮守の森は荒れ果て、祭りも形骸化し、地霊は忘れ去られているような(マツリゴトの行われていない)土地では、そこの住民は「地元」として振る舞えないというような極論も同時に成り立つ。また、マツリゴトを共に行う移住者は、「地元」と呼称できることになる。(未だに激しい祭りを行っている女木島ですら、もう外部の協力なしには、祭りを存続し得ないと語っていたことを思い出そう。形骸化しつつも伝統として保存するのか、進化論に従い朽ちるに任せるのも宿命なのか…)

 

23 12月 ’13 mileblog

産土 / Ubusuna short trailer
made by Koji Hirose (Professional Trailer Maker)

予告編ロングバージョン: vimeo.com/56502385

 

神山在住の予告編づくりプロフェッショナル、広瀬浩二さんにひょんなことから知り合い、産土の予告編を作って頂きました。僕の映画学校時代の同期から「先輩が神山に引っ越すことになったんでよろしく」との便りがあり、場所を聞いてみたところ徒歩3分くらいの場所にいられることが判明(笑)

 

それで今回の予告編につながりました。

広瀬さんは、『○シャンクの○○』とか『海の上の○アニスト』とか、僕の若かりし頃のウルトラリスペクト作『Pola○』とかの予告を手がけて来たプロ中のプロであります。そんな方が神山にひょっとこられたということがなんたる奇跡。。

タイトルやスクリプト、様々なことを含めて「チーム神山」で製作できたと云える『産土』ですが、

また1人、力強いプロの手をお借り出来ました。

この場を借りてお礼をば。

 

広瀬浩二さん:予告屋

 

 

また映像末にもあるように、自主上映希望者の方を募っておりますのでよろしくです!

 

PS.

広瀬さんの製作してくれたシークエンスを書き出すために久々にFCP7に触りました。

『産土』はFCP7で作っているので、仕方ないんですがずいぶんとプレミアになれちゃったんで隔世の感が。

いずれプレミアで、かつDavinci全面カラコレで、しかも内容もぐっとアップして『産土』ニューカット版を

お届けしたいと(自分の首をガチガチしめるかんじで)思いました。

 

 

 

 

3年前に撮った神山在住サダ君の映像を最近になってようやく編集したのでアップする。

彼の石と交換で映像を作ることを約束してから早くも三年も経ってしまっていた。

FCPから離れ、Davinci Resolveでのカラコレをなんとなくは理解してきて、ようやくこういった素材を

編集する技術レベルになった感がある。(あ、もちろんうちの編集スペックも含めて)

 

36分もある大作ですが、やはりインタビューというのはこんだけかかるんですなーというのが所感。

まじめに追うと。別にこれは広告でもないし。

 

自分の中では、これでようやく愈々もって「さっちゃん」を編集できるよな

実感が持てたような気がします。

では、とりあえずヤーマンw

 

9 12月 ’13 fragments

UKETAMAU from Ben Ruffell on Vimeo.

 

去年の森キャラバン=『産土』の中で生まれたスピンオフ短編、UKETAMAUです。

僕は共同監督としてクレジットされています。

 

 

Pingmagに掲載された記事を参考までに。

Written by                   →English ver.

山は大変なことになるなっていう危機感を持っています」そう話すのは、山梨県の奈良田で温泉宿を経営する深沢守さん。国内でも特に山深い場所にある奈良田は、かつて存在した集落がダムの底に沈み、多くの住民が集団移転を余儀なくされた場所として知られている。今日ではそんな悲劇はまず起こりえないものの、鹿の過繁殖や川の水位の低下、唐松の植林による森林破壊など、現在深沢さんを悩ませている問題はどれも深刻だ。「どうなることやらですね、ちょっと心配です。特に山が心配です」

ubusuna

奈良田は、2012年上旬に始動して以来国内各地で里山の集落を撮影してきた「森と共に生きる暮らし方」探訪キャラバンの停泊地のひとつだ。長岡マイル監督率いる同キャラバンは、徳島県神山町にあるNPO法人グリーンバレーが企画し、愛・地球博成果継承発展助成事業に採択されたプロジェクトで、撮影と企画に十二ヶ月にも及ぶ期間を費やし、長岡をはじめ停泊地ごとに異なる映像製作者を海外から迎えている。日本、フランス、ニュージーランド、シンガポール、マレーシア、イギリスといった各国の視点を盛り込んだこの映像の山――ダジャレのようで申し訳ないが、文字通り「山」である――は、その後長岡とトム・ヴィンセント(皆様もご存知、我らがPingMagの編集長)の手で編集・監修され、『産土』という二時間のドキュメンタリーとして五月にイギリスのダーリントンで上映された。また日本国内でもプライベートな試写会が開かれており、筆者も先日スパイラルで開催されたそれに参加してきた。

ubusuna

『産土』とは神道の言葉で、その人の生まれた土地やその土地と人びとを見守る神を意味する。過日富士山が世界遺産に登録されて世間を賑わせたのを機に、今改めて観光業界の売り文句や愛国精神を抜きに、日本の山々や未だそこで暮らす人々の行く末について真剣に考えてみたい。

福島の原発事故後の日本では、持続可能性はこれまでになく重要な問題として注目されている。オール電化の家電製品はいまや巷に溢れ、望めば簡単に手に入る時代だが、現代の日本に昔のような環境に優しいコミュニティを作ることはできるのだろうか。江戸の町は、今日世界一を掲げる東京と同じく当時世界最大規模の都市だったが、驚くほど環境効率の良い町であったことでも知られている。細かいシステム作りを得意とする日本人らしく、その当時の江戸には都市が排出するごみを農業用の堆肥に加工するための処理施設まで既にあったというから驚きだ。同じように、今失われつつある里山の農村生活も、周囲の環境に配慮した小規模農業の素晴らしい見本である。

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奈良田の現状は深刻ではあるものの、山の集落は無気力とは程遠く、悲観すべきものではない。『産土』は映像の中で、そういった人里離れた、けれど足を運ぶ価値は十分にある様々な集落を紹介している。例えば茂倉の集落では、高齢化が進んではいるものの未だ元気な住民たちが、にわか仕込みの雨乞いの踊りを披露し、それがどうやら功を奏す様子が収められている。

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かたや稲又の集落には、毎日猪、熊、猿、鹿といった野生動物から畑を守る九十代のお年寄り、望月ふみ江さんがいる。唐辛子やドラム缶を使った焚き火で動物たちを撃退する望月さんは、沈痛な面持ちを見せながらも現実的だ。 「限界の村っていうのが現実だね。自然に人が減っていって、出た人が帰って来なければ、自然に消滅するよね。生きているうちだけ元気に暮らしていくしかないね。くよくよしても仕方ないから」

『産土』に登場する人びとは外から来た人間に対しても闊達で、カメラを携えたキャラバンの質問にも気さくに答えている。クルーが遭遇したそんな住民の中には、外国人のマーク・フェネリーさんもいた。フェネリーさんは、徳島県の木頭村で木馬(きんま)と呼ばれる運搬道具で山から運び下ろした材木を川に流して乗りこなす、『一本乗り』と呼ばれる特殊な材木流しの技術を住民に教える保存会に所属しているのだという。この技術が使われていたのは、材木が空中に張られたケーブルで運ばれるようになる以前のことで、熟練の技を必要とする大変に危険な仕事だったそうだ。「この辺の林業がすごく盛んだった時のかっこいい仕事、一番イケメンの人がやるような作業だったという風に聞いています」

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唯一キャラバンが話を聞くのに苦労したのは、沖縄の久高島だ。島の人びとは、撮影されることでカメラに魂を盗まれることを恐れたのだ。考え方が古い、もしくは前時代的だと感じられる方も少なくないだろう。だが島民と土地の結びつきは強く、それはタコや貝などの恵みをふんだんにもたらしてくれる海への感謝に根差したものだ。久高島には個人所有の土地という概念はなく、すべてはみんなのものという扱いだ。

久高島での話には、時に寒気すら感じさせるものもあった。久高島では、年に二回神様が島に降りてくる行事があり、その時期には島民すら足を踏み入れることができない場所があるという。「そういう時に間違って車とかオートバイとか持っていったらすぐ畑に出たりする」と島民のひとりは話す。「神様が通る道だから避けさせるみたい」 おかしな禁忌に時代遅れな迷信だと思われるかもしれないが、余所者である我々に何を言う資格があろうか。かつて久高島では、三十歳以上の女性が神女となるためのイザイホーと呼ばれる儀式が十二年ごとに行われていたが、この儀式は1978年を最後に途絶えたままだ。しかし神々は、きっと今もなおこの島に息づいているのだろう。

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日本文学の研究者であるデイヴィッド・G・グッドマンは、60年代から70年代にかけての日本のアングラ劇場文化におけるプリミティブな比喩表現やシャーマニズム的でありながらも時代を超えたテーマの増加について触れている中で、当時のアートシーンを「神々の帰還」と評している。どうやら自信が揺らいだりインスピレーションにひらめきを求める時、人は自分のルーツに戻ることで得るものがあるらしい。しかし中には、そもそも神々がこの土地を去ったことはなく、今もずっと共に歩み続けていると感じる人びともいる。

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神道のような自然信仰系の信念体系に対する西洋人の反応は、その大抵が「迷信深い」というものだ。西洋人にしてみれば、人類は論理的に考えて、単に自然というひとつの「ステージ」に上がっているに過ぎない。だが今日の日本の現代的な生活からは想像もつかないかもしれないが、依然としてそういった素朴かつ漠然とした、日常や風景に溶け込みながらもただ「そこ」にあり続ける信仰を持ち続けている集落も残っている。それは確たる形のある宗教とは言えないかもしれないが、都会でも田舎でも、神々への日々の感謝はほぼすべての日本人の胸に当たり前のようにあるものではないだろうか。

だがそれをよく「何を考えているのかわからない」と言われがちな東洋人のメンタリティとして片付けてしまう前に、一見非論理的な習慣や禁忌(例:なぜインドで牛が神聖視されるのか)の多くに、コミュニティを維持するための環境的な理由が隠されていることを説明したマーヴィン・ハリスのような人物についても思い出してみてほしい。そして我々は同時に、西洋的な衝動の最たるものである「すべてを解明し丸裸にせんとする心」を抑えることも忘れてはならないのだろう。

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落とし穴はそれだけに留まらない。日本の旅行代理店は、長年「ふるさと」という言葉が喚起するロマンチックなイメージで莫大な利益をあげてきた。だが郷愁やエキゾチシズムに偏りやすいテーマの中で、『産土』はさりげなくその中間に位置している。異国情緒はあれど、エキゾチシズムはない。各地を修行で渡り歩く山伏の苦行も、大仰な信仰の儀式というよりは日常のひとコマとして紹介されている。「日本人にとって山というのは、まず女の身体を表しているんですね。そしてその身体の中でも、やっぱり赤ちゃんが生まれてくる場所」 羽黒山伏先達の星野文紘さんはそう話す。またこの映像は一種の旅行記ではあるものの、その焦点は旅そのものや旅人ではない。ひとつの場所から別の場所へと淡々と移り変わるこのドキュメンタリーは、誇張もなければ見る者を急き立てることもない、まさに真の意味での「ドキュメント(記録)」なのだ。

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こういったアプローチは、日本の地方文化の擁護者、宮本常一に共通している。宮本がその生涯に歩いた距離はおよそ16万キロと言われており、彼は日本国内の隅々まで足を運び、人里離れた地域の人びとの話を記録した。そんな彼の地道だが鋭い観察は、1960年に代表作『忘れられた日本人』として出版され、一躍脚光を浴びている。しかしこういったコミュニティは本当に忘れられつつあるのだろうか?もしかしたら、我々が心配しているほどそうでもないのかもしれない。

日本の山や森は深刻な問題を抱えているが、今もなおそこで暮らし働く人びとがいる。そして彼らの持つ知恵――古きも新しきも――は常に活かされるのを待っている。「森と共に生きる暮らし方」探訪キャラバンもまたその旅を続けることが決定し、既に新たな地方集落をフィルムに収めつつある。きっと産土の神々も撮影スタッフを歓迎してくれるに違いない。

 

「森と共に生きる暮らし方」探訪キャラバン」
www.facebook.com/lifeandforest

NPOグリーンバレーとイン神山
www.in-kamiyama.jp/gv/

翻訳:山根夏美

10 11月 ’13 産土