「食いもの」

以下は、2012年9月30日にFBのノートに書きなぐったものである。

1年以上過ぎた今久しぶりに再読してみて、若書きや知識や情報の欠乏を感じる。

特に2年間あちこちを回って来た前と後では、日本というものの現状、田舎というものの現状に

対して大きな認識の差があるとは言っておかなければならない。

それでもここで述べている当時の心象と現在のそれと、そう大きな変化はない。

そういうことからここでこちらのブログに再掲しておきたいと思うとともに、

こういう「田舎暮らし」にまつわることを、今後発信して行きたいとも思う。

 

 

最近僕の周囲が慌ただしい。様々な思惑、様々な業種の人たちが、入れ替わり現れる。気分的には、嫁と子と犬に囲まれた、ただの住民と化しているので、よくもまーこんな田舎にみんな好き好んでくるなあという牧歌的心象すら抱いているのであるが、僕自身Iターンの端くれとして雑誌に掲載されたりなどという、望む望まないにかかわらない取り上げられ方をし出していることに、少なからず自分自身としても違和感を抱えている中で、僕がどういうスタンスでここで生きているかという所見を、この際ちゃんと表明しておいた方がいいような気がしたので以下に記すことにする。もちろん、長文になるであろうこんな文を誰も読む必要はないので、スルーしてもらって構わないが、仮に読まれた後で、価値観のズレを指摘されたり、非難をされたり、議論を吹っかけられたりすることは、歓迎もしないが厭わない。また一表現者及び、一移住者の思考としてなんらかの問題・議題を提出することになる可能性もあるが、ほぼ戯言の類であると看過されて構わないと始めから申しておく。

 

ー「あんた地域を食いものにしてるんだ」と、4年ほど前墨田区のとある場所で言われたことがある。

誰だったか、サヨク的な思想を持った中年の建築家にだったか。僕は鬼の形相で反駁し、抵抗し、ちょっとした喧嘩騒ぎになった。周囲からは、そんなにムキになるのなら、あんたはちょっと違うんじゃない?と言われ宥められたが、僕の怒りは収まらなかった。「地域」という言葉をやたら神聖化し不可侵なものにする輩の存在に、この時始めて気がついたのであった。そもそもの言われたきっかけは、僕がその当時移住した墨田区京島のドキュメンタリーを、町の文化祭のために制作し、それを上映したからだったのだが、「食い物」と云われるのは、論外も論外、全くもって自腹でスタッフと機材とを掻き集め、何度も取材の現場と事後の徹夜を繰り返し映像化したのであって、その地域から金をふんだくってやろうなどという意識は微塵もないし、そもそもその場所にふんだくれるだけの財も、ない。どちらかというと「表現者としての義侠心」のようなもので動いていたように思う。もっと噛み砕いてみれば、老人たちが持っている郷土的な心象や知見を、次代に引き継ぎたいというスイートな気持ちも十二分に持ち併せていた。おそらくそれがオオヤケから依頼されたビジネスだったとしても、僕はそのような気概で取り組んだに違いないが、ましてや自前である。故に「怒る」という感情に至った。イチャモンもいいところだし、瓢箪に駒だったし、ならば「おまえがやってみろ」と思ったのであるが、だいぶ時が経ち振り返ってみて、ほんの僅かだが、「食い物」にした部分もあったな、とやや自省しなくもない。それはその地域の来歴や老人たちの現在を、ある種の「ネタ」として捉えたからだ。

 

「ネタ」にする。そんなことは表現者なら当然の欲望である。そもそも「ネタ」を明確にし、認知し、向かわない限り、取材という行為も撮影という行為も成立しえない。が、テレビを中心としたメディアが、それを余りにも過剰に、己たちの保身と増殖のために使ったがゆえに、人々は嫌悪を抱き、頑なに拒みもするのも又事実である(と同時に情報の消費者として、未だにそこに闇雲に群がっているのも事実ではあるが)。だからこんななんの肩書きも腕章も付けていない僕にですら、「メディアの人は」とか「撮影はちょっと」等と日頃云われてしまうのだ。大手のメディアだろうと、個人が自前で作品として制作するものであろうと、大差ないと思われているのが厳然たる事実だ。そんな僕の立場から言えるのは、彼らがあまりにも事実関係を無視し、反故にし、自分たちのメッセージのために粉飾し、切り刻み、編集している(もっというと、不必要に長時間の取材撮影をし、品行悪く周囲をうろつき、無駄に多数のスタッフを引き連れ、根掘り葉掘り不躾な質問をし、しかもその成果物が事実関係を無視してすらいる)、からなのだが、だが僕自身、今語るべき物/語りうる物は何なのか?を問い続けた挙句として、老人たち、限界集落といった現代の「荒び」に目が行くのだし、懺悔してみれば、僕はどうしようもなくそれを「ネタ」として利用している。ゆえに「食い物」にしているという表現は、妥当でないとはいえない。(たとえそれが視聴率拡大のためでも、販売促進のためでなくても、今までで初であるとか、これを自作として公開したいという僥倖心がなくはないし、そういった疚しさはどうしても拭えないことを報告しておく。また、現在その「ネタ」を巡る助成事業を委託されている身でり、それをシノギにしている立場ですらある。)

 

上記を踏まえ、今この神山という地に至り、一住民として住んでいる自分はどうなのか。そもそもがただのきっかけとして、神山というフィールドを与えられ、テーマもそこから探しだした。そう、勝手に、である。その過程で、ある散髪屋の老婆のドキュメンタリーを撮る中で、短期滞在を、中長期滞在にさせ、かつ長期滞在をこじらせ、(いつの間にか結婚と子供の出産を済ませ)ついには彼女の家の前に住んでしまったわけだ。なぜか?と問われてもよく分からない。僕は彼女の存在に圧倒され、彼女の内面の修羅を見、それを映像に収めたいと思った。彼女はいつの間にか被写体以上の存在になり、親よりも健康を心配し、内面を吐露仕合い、毎日のように触れ合うようななにものかになった。いわば恋のように。

 

くり返しておくが、そもそも神山(or KAMIYAMA)に来たかったというわけでもなく、レジデンスやらサテライトオフィスやらに興味があったわけでも何もない。ましてやスローライフが送りたかったわけでも、放射能から逃げてきた訳でもなかった。ただただ、表現という行為の延長として、東京の微温湯の中に身を据えていては分かり得ない「現在の肖像」をレンズ越しに知りたいと思い、偶然の縁を伝ってここまで来ただけであるので、神山に意図的に、自ら望んで、地域や町おこしや自分探し等のキーワードで来た人々の心象は、申し訳ないが、まったく共有できない。また、そこにビジネスチャンスを見出しやってきた人々の思惑とも僕のそれは違っている。そもそも地域においてビジネスチャンスは指折り数えるほどだと思っているし、現にそうだ。その地域の一般家庭ですら、所得が低下し、仕事先も少なくなりゆく中で、なぜ不意にモメントとコンタクトする機会のあった一移住者(一事業社)が、自己を延命させるためにやってくるのか、そこで地域の経済を吸い上げてしまうのか。その地での平均給与以上のギャランティを確保できてしまうのか。そこで雇用なりを僅かでもつくっていれば別だが、そうでもない限りは、同様の地元の若者たちや中高年者たちの仕事の機会を奪うことになるのであり、食い物にする以上に非常にナンセンスなことをしているといえる。(時代の目から見て全くもって遅延している表現のまま癒着的に仕事として成立しているようなものは淘汰されていいとは思うが)例題としてあげてしまって申し訳ないが、若い移住者の一部が、土木作業の臨時仕事を手伝うのは大いに間違いであったと思う。そのような仕事にしかつけない人々の絶対的仕事量を切迫して何になるのか、と。それは行政が取り締まってもいいようなことであるとすら思う。それは己の口を糊するために必要なことであるのは分かるが、なんのために地域にやってきたのかを彼らは真剣に考えた方がいい。若い人間と触れ合えて気持ちが若くなったとか、若者のいない町に活気が戻った、などという表層的な牧歌論に共感できるほど、限界と呼称された地域の修羅はスイートではないはずだ。右も左も、腕に職も、身に色もついていない若者が、自由自在に欲望を結実させる桃源郷であるほど、田舎の経済は甘くはないのだ。(とはいいつつ、山村留学等で都会で苛められていた子どもが活発さを取り戻したり、ある種のモラトリアムとしての機能を田舎が背負うことに関してまで否定はしない。或はそのような状態から抜けだそうと足掻く姿には、手を差し伸べようとする気持ちを禁じえない。)田舎に限ったことではないはずだ。僕が住んでいた東京の下町で、町おこしやら新タワー特需やら景気のイイ事に踊っている裏で、多くの障害者や末期老人たちが悲痛な人生を送っていた光景を僕は何度も目にしたのを忘れてはいない。深甚な介護があり、年金のみに怯える暮しがあり、業態の変化に伴う数多くの衰退があり、夢と現実のハザマに彷徨う多くの倦怠がある。新タワーの巨大なフォルムは、彼らの影をいっそう濃く、深くさせてしまったことを僕は忘れてはいない。

 

…いざ、自分に矛先を向けてみると、僕は子どもが去年の年末に誕生するまで、笑えるほど「食べる」ということについて全く考えていなかった。そう、僕は片輪なのだ(笑)。気取ったことをいえば、生活者としての自分よりも、表現者としての自分を優先させていていた。(生活者としての自分は当然そこにいる、僕は全財産を自分の機材を購入することにつぎ込み、東京から神山に越してくる時に使っている。明日の糧に窮することは往々にしてあるし、これからもあるだろう)昨年撮影した、女木島の映像にしても、まったくの自腹である。大きなプロダクションだったりならば、予算をどこからか引っ張ることも可能だろう。文化庁等の省庁の予算を引っ張ることも可能だろう。だが、僕はたかだか個人の「カメラを持った男」に過ぎない。しかも今の時代にあって盛んに喧伝されているようなネタを扱っているわけでもないし、今風の表現をしているわけでもない。更に僕には明確な政治的メッセージがあるわけでもない。それが、どのように公開され、どのように人々の中で膾炙されるか等ということも夢想こそしけれ、ほぼノープランだと言っていい。だが、僕はこれが「今語るべき情報である」と本能的に思っている。僕は小さな町工場にも、困窮する老人たちにも、若者のよりつかない黴臭い鄙びた祭りにも、一枚の煎餅の成り立ちにも、不可避的に興味がある。それらは、現在に到るまで、「語るべきもの」とみなされてこなかった対象たちだ。映像は広告に従事してきた。し過ぎてきた。そこで甘い蜜を吸いすぎて自堕落になり、高飛車になりすぎてしまった。マーケティング的なデータにのみ拘泥し、それがどういう人たちであるか知ろうともしなかった。語るべきは、生活者そのもであった、ということを忘却してしまった。(いや、始めから知らなかった)

 

僕は、孤独な闘いを挑んでしまった。それはずっとこの7年間ぐらい変わらないテーマだ。生活者の肖像と心象。それを興味本意に作品として結実させようとすると、自腹という選択しか今のところなくなる。どこかから予算を付けるという才能が、悲劇的に欠けているからだ。が、僕は興味を抱くというある種の性癖的行為を、止めることがどうしてもできない。目はそちらをみてしまう。スカートをはいた女性を本能的にチラ見してしまうのと同じだ(笑)そこはもう、ロジックではないのだ。ここが、僕の戦場であり、ノルマンディーの海岸なのだ(やれやれ)。…が一方で、「自腹だというが、おまえはどのようにして食っていたのか?」という粗暴な質問が投げられるのは自明である。不用意な人々は得てして反射的にそう聞いてくる。それに対しては、僕は去年の一年間、東京の小さな制作会社の社員として籍を置きながら、神山で生活していた。そこの社長と僕との、模索だった。ゆえに、最低限生きるだけの給料をなんとか確保しつつ生活することができたと説明可能だったのだが、今年の一月からは個人事業であるので、運と縁でやってきた仕事を糧にしていると云うしかない。実際そうだ。無論、家賃の低いこの場であるからこそ成立しているのであって、家賃が未だに高すぎる都会では首を括るしかないモデルである。

 

…だが、僕は「信じて」いるのである。盲目的に。「信仰」だといってもいいほどに。信じている、というよりは、絶望的なほど、楽天的に疑っていないというほうが誠実だろうか。こっちにやってきてしばらくしてから、Mさんに云われたことがある。「ここでは、自分の出来ることを出し惜しみする暇がまったくないのだ」ということを。二年住んでみて、まったくそのことを同意するのだ。東京で勤務していて、クリエイティブ・ディレクターという肩書きがついたことが二度ある。が、僕はほとんどなんのクリエイティブ・ディレクションも担っていなかった(担わされていなかった)。その職能にあるものがそれを担わなくていいほど、余剰なものに金を払う能力がそこにあったわけだ。が、そんなゆとりは今の僕にはまったくといっていいほどない。身体の弱さをないことにして、あらゆる場に赴き、あらゆる仕事をこなさなければならない。そんな中で、僕には自分でも気がついていないところに特性と傾向があったのか、そこを期待され仕事の依頼されるケースが増えてきた。それは今まで強みとしてはまったく認識していなかった特性であった。そして多くの仕事で、自営業者としてまったく代わりが利かない立場を担っている。身体が資本であり、エクスキューズはまったく利かない。父親としての自分も、旦那としての自分も、表現者としての自分も、毎日がリミットを更新する作業である。ノープランの中で、縁が縁を呼び、仕事となる。どんなにギャラが安くても、今の僕は全身全霊を打ち込めている。それをやり続ければ、自分の生計は維持できると今は思っている。

 

生計を立てるということ、それを「食い物」にしていると今誰かに罵られても、別に否定はしない。僕がここにいることで、誰かの生活を大幅に阻害し、収入を下げさせてしまっているのならば、たぶんここから出て行く道を選ぶだろう。が、僕の特性や特色を誰かが必要としてくれる限り、僕は「カメラを持った男」であることを続けようと思う。それだけなのだ。洗いざらい語ってしまえば、僕は今年映像を完成させ、仕事を満足にできないのであれば、レンズとカメラを破壊し、すべてを辞めて他のカタギの商売にでも付こうとすら、真剣に考えていた。おかげさまでなんとか今日も晩飯が食べられるが、このような危機感はこれから日常化することになる。親には「安定してくれ」と言われるが、安定などどんな人にも存在していないと即答することにしている。僕が興味と仕事先としての視線を向ける中小企業も、不安定な会社の方が多いことだろう。そこは不安定な者同士のせめぎ合いなのだ。僕という漠然とした「広報装置」を、どのように不安定な企業や組織や個人が、扱うか。僕は思考すること、研磨することを止めはしない。僕の仕事は、それに賭け、共感してくれる人々との共同戦線だ。ローカルのクリエイティブはダサいとか、そういうことを東京の目線で語りたいわけでもない。金額の多寡という尺度でもない。僕の目安は、「僕が興味を持てるか」なのだ。ただ、それが結実するだけ、ということだ。東京に居る時、「こんなことをするために生まれてきたわけではない」というのが酒場での口癖だったように思う。だが、僕がこの世に生を受けた理由を、今問うのならば、「興味を形にすることだ」となんとなく言えるのである。

 

最後に場について書いておく。僕は「明日の神山」よりも、「今の神山」に興味があるのだ。生活者として。霧や靄が当たり前のように漂う山の風景を愛しているのだ。夏のすばらしさと、冬の厳しさ、その双方に身を置いてそれを遠慮がちに楽しんでいるのだ。ゆえに、周辺でかまびすしい風力発電問題にもなんら是々非々をどうこうするつもりはない。個人で考えたうえで、自分の一票を投じればいいと無邪気にも思っている。なぜ、今周辺で「明日の神山」を理想化・神格化し、その桃源郷から逆算して現在を否定するのか。ここは桃源郷性愛者のアレックス・カーに糞味噌に言われた通りの、コンクリートに埋め尽くされ、まともに主導的に内政も外交も悲劇の後処理もできやしない日本なのだ。そこを否定しだすのなら、僕はもはやこの国に住む力がなくなる。だが、僕はこの国がまだ、好きだ。汚点も含めたこの国の優しい人々と、それでも美しい風景が好きなのだ。今年に入って、様々な地域を旅することが増えてきたが、その折々で出会う風景や人々を見て、僕は未だ日本人であったことを思い出し、誇りに思いすらしている。ただ否定のみすることに僕は抗う。それはあまりにも安易であろうと。ヒステリックに例証をまくしたてても、人はなにも揺り動かされないのだ。身も蓋もない極論だが、本当に「明日の神山」を、はたまた「明日の日本」を是々非々するならば、政治家として立候補する他はない。それができなければ、つまり内部としてシステムを改変する側に立たなければ、ただの無為無策な戯言だ。もしくは福島の詩人のように、それぞれのフィールドから腹の底を絞りだし、なにかを語り出すことが大切なのだ。それは町づくりにも敷衍できよう。元気な町、元気がない町。カリスマ的リーダー、それがいない町。熱がある町と、ない町。そんなことを外部から批評しても、実はなにも始まらない。内発的になにかを発信し続けない限り何かが変わることも、何かを担うこともない。外から指摘すること、それがどんなに穿っていようと、それはただの一般論に過ぎないのだ。(人は一般論を愛し、一般論を拡散し、促される傾向にある)僕に出来るのは、カメラを据えて記録することだけだ。情報の表皮を撫でるのではなく、ただ見守るだけの不安定な定点カメラとして。それが「語るべき情報」として、或は人を動かすかもしれない。はたまた、ただの時間のゴミとして扱われるかもしれない。が、それは僕の問題ではない。映像は、鏡だ。鏡に写ったものをどう考えるかは、それを見た人々の問題なのだ。それが内在化した「カメラを持った男」としての唯一の町への貢献の仕方なのだと思う。そのような存在であるということを、僕はようやく受け入れだしてきている。

 

 

後記1: 一つ言い足りなかったのは、「地元」という語に関してである。鶴岡の山伏が僕に語ってくれた。「自分の祖先だって何代か前に他から移り住んできたんだ。そもそもが余所者だ」という言葉。マタギからも、6代くらい前に栃木から移り住んできたらしいとの言を聴いた。一代前から猟師になったらしく、その前は宮大工だったという。もっと言えば、東京の下町を取材した時も、そのほとんどが出自を異にする人々が集まり、移り住んだ、ということ。うちの親父の実家は長野にあるが、それも6代前に新潟から移り住んできたと聞いたことがある。…「地元」という言葉は、どこからどこまで適用されるのか。生まれ育った地という意味ならば、うちの子は徳島生まれなので、ここが地元であるが、その親たる僕ら夫婦は地元でないのか。…つまりが、そんなあやふやな言葉なのだ。それをあたかも神聖な言葉のように扱い、金科玉条のようにし、それ以外を差別化するための語として、あまりにも不用意に使用されていることに、相当な違和感がある。

 

後記2:「地元」という感情はどこから起因するのか。一つは生まれ育った記憶を担保とする感情である。その土地で、暮らしてきた様々な記憶が蓄積され、「記憶の年長者」としてふるまい、新参者を時に受け入れ時に排除する緩いシステムになる。摂取と排除という免疫のようなシステムは、当然といえば当然の働きだ。例を二三。朝鮮や中国からはるか昔に渡ってきた渡来人・帰化人のようにこれまでの日本には存在していなかったような専門的職種の職能たちは、排除するどころか丁重に扱われ、次第に同化していった(僕の母方の遠い先祖もその一人だったという)。焼畑、稲作、土木、建築、医学、宗教、芸術等々の根本的ベースは彼らが担ってきたのである。平家の残党伝説は、最古のIターンの歴史だとも捉えることも可能であり、彼らは排除されずに、共存し、土着化していった。(つまりが、その土地々々にとってボトルネックであるような職能に移住・移動に関しては、歴史的にみても比較的頻繁に行われていたということであり、現代でも当然起こりうるハナシである。)又、民間でも「客人信仰」のように、外部を内へ取り込むような働きもその裏で歴史的には存在していた。神話にある娘を客人たる神に差し出すようなことも、実際あったのだと想像されるし、現在まで続くお遠路へのお接待という文化も、そのような働きの延長線上にあると思われる。

 

もう一つは、地霊との交信という側面がある。土地を開墾するということは、その地の神に伺いを立て、承認をもらう代わりに神殿を建立し、以後代々に渡りそれを崇めてきた。山と共存するということにしても基本的には同じ思想のもと行われ、山から里に近い山を借り受け(里山)、その場で基本的な生活の糧を得るため、そこは入会地とし、崇めつつ共に働く場所とした。奥山に入る際は必ず山の神に祈り、狩猟や採集、伐採をする際も、神事のような段取りを経ていた。つまりその行為を人が行う場自体を、「地元」と呼ぶということだ。その観点からすると、現代になって入会地/共同所有という概念はなくなり、里山や鎮守の森は荒れ果て、祭りも形骸化し、地霊は忘れ去られているような(マツリゴトの行われていない)土地では、そこの住民は「地元」として振る舞えないというような極論も同時に成り立つ。また、マツリゴトを共に行う移住者は、「地元」と呼称できることになる。(未だに激しい祭りを行っている女木島ですら、もう外部の協力なしには、祭りを存続し得ないと語っていたことを思い出そう。形骸化しつつも伝統として保存するのか、進化論に従い朽ちるに任せるのも宿命なのか…)