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来る8/10(日)に明治神宮、参集殿で拙作の上映+座談会イベントを行います。

「現在(いま)」を知るということ」と題しまして、
震災後、人はどのように生きるべきなのかということを
民俗、そして祈ることという論点から考えていきたいと思っております。

映画『産土ー壞ー』の東京初上映に加え、
素敵なゲストをお呼びいたします。

二年前の最初のシンポジウムでご登壇頂いた、
民俗学者・野本寛一先生と、羽黒山伏・星野文紘さんの
夢の競演を皮切りに、明治神宮から今泉宣子さん、そし私の座談会、
司会は元福島テレビの長久保智子さんにお願いできました。

来場の方には映画のパンフレットを差しあげます。

先着250名様までとさせて頂きますので、
お早めにお申し込みください。

 

日時:平成26年8月10日(日)13:30~17:00(13:00受付開始)
場所:明治神宮 参集殿
定員:300名
参加費:2,500円(税込)※事前予約制
こちらのサイトからお申込みください。(Facebookイベントページに「参加予定」にしていただくだけでは「事前予約」にはなりません。ご注意ください。)
http://ubusuna2014.peatix.com/

 

(…続きを読む)

ようやく、映像の編修の追い込みと上映という緊張感から解き放たれたが、
こなさなくてはならない仕事は減らないし、同時に風邪もひきかけているような現在、
先日発表したパンフレットの文章を、また字数制限のために添削する前のものを掲載しておこうとおもう。
以下本分。

 

「丁度良さ」

なんとか二年目のキャラバンも無事終えることが出来た。

今振り返ってみると正直言って、そもそもこんな無謀な企画が実現出来るとは思ってはいなかった。
日本の山村漁村の現在を廻ると言うことは数秒で済み優しいが、実際に行くとなると大分事情は変わる。

身体を旅の中に預けると、それまでの意図や推論は消え去ってしまう。旅の時間は目まぐるしく、新奇な物事が入替り立替り登場するため、理解が追いつかない。撮影した素材を編集し終える段まで来て「ああそういうことだったのか」と首肯けることばかりなのである。

そうやって一年のうちの何割も古色蒼然としたものばかり見続けていると、ふと数時間で戻れる都会に戻って我に返ると、なんともいえぬ徒労感に襲われる。「限界」の老人の話しばかり聴いていると、都市の若い人々の多幸感の横溢がたまらなく遠く感じて、子供と老人の間に位置する自分自身の存在を見失いがちになる。

それでもなんとか幾つもの「今日」を歩いてこれたのは、多くの先達たる民俗学者や郷土史家、教育委員会の担当者等、何かの散逸を必死に守ろうとしている人々の熱意のおかげだったと思う。

無我夢中でしがみつき乗り切った初年度は、後から考えるともっとできたのではないかという想いが幾度も去来し自責の念が駆け巡った。その目の前に起きていた事象を把握するには、僕らは余りにも無知で門外漢であった。そんな自省とともに迎えた二年目は、機材もキャノンの5Dマーク2からマーク3になり、c300やRED等の高価な機材も現場に投入できるようになったりし体制も少しは整った(といえ以前脆弱には変わりがないが)。そしてなによりも本質的な事、その深奥に迫りたいと思った。本質…当世のドキュメントを作るものとして当然福島や原発を避けることはできなかったし、「森とともに生きる」と号した手前、森の本分を知らねばならかったし、恐れ多くも『産土』と題してしまった手前、それがそもそも何なのかということに答えを見つけねばならなくなった。無論、それは非常に困難が伴う旅であった。だがやると言ったからにはやらなければ恥ずかしいし、人生は一度しかないのだから挑まねば損というものである。それは僕なりの責任感というものなのかもしれない。

出立にあたり「スケッチ」という言葉が手懸りとして浮かんだ。幾多の場所で膨大な会話や風景を記録したところで、二時間程度の映画で語れるものは僅である。体制に限界があるので十全で執拗な取材もできるわけがない。ゆえに僕らが取れる手法は「スケッチ」ではないか。大事なのは、こちらの心の振幅を素描することではないか。それを芭蕉は「黄奇蘇新(こうきそしん)」と呼んだ。一切の瑣末を省けと。

一つ一つの出来事や人物は、大きな概論として括られることを拒んでいるように感じられる。が編集してそれを説明しようと知らず知らず編集者は概論を所望するようになる。今年は出来るだけ括るのをやめたかった。本作は幾多のスケッチのピースを土台にしたパズルのようなもになる筈である。ゆえにそれがどういう意味を持ったものとして像を浮かび上がらせるかは皆目分からない。このご時世にあってはスレスレのものをテーマとして設置してある。賛否が囂々と寄せられるのは覚悟の上だがそれを避けて通るようなもの等、後世に対して価値があるだろうか?とも思う。

前作は上映の為各地を廻っているが、上映後数人の観客の方から「現実は分かりました。で、どうしろというのですか?」「あなたは悲惨な事実を見せてどうしたいのですか?」という声を頂くようになった(大抵は団塊の世代の方だ)。たしかにもっと希望となるべきものを撮れば良かったかとも思ったが、浮かび上がったパズルから何を見るかはこちらの与り知る処ではなく、そこから省みてどんな行動を起すのかは、無責任にそう問うたご当人の問題である。…が、この場を借りて僕自身の考えを僅に述べておくことにする。それは「国土」から「産土」への価値観の顛倒、いや回帰ではないのか、ということだ。「戦後レジームからの脱却」などの語彙では本質を見失う、言うなれば明治レジームからの脱却を図らなければならないのではないかとも思う。僕らは明治への入り方を多いに間違ったのだと思う。

今から江戸時代に戻ることはできないが道しるべとなるヒントは、福島の紙漉職人西森さんが言うように、個々人が「調度良さ」を探すことではないのだろうか。彼が水と繊維との混じり具合を探求した果てに吐く言葉はとても重い。ただ過去を礼賛するのではなく新しいものと混ぜること。つまり、漉くこと。その漉き方が問われている。

この100年余り、金の追求で現在の姿、国土が出来上がったのだろうが、経済の持続的発展というフレーズも今や空虚である。そもそもを考えるべきだ。経済(エコノミー)という語は、オイコスとノモスという言葉の合成であり、家計や家、地域をどうやりくりするか、考えるか程度の意味である。つまり産土という語に近いのである。

天下国家を嘆いてだんまりを決め込むのではなく、或は様々な悪党たちの村を妄想してやおら批判にあけくれるのでもなく、ひょっとこのように裸になり森で踊ってみることの方が大事ではないのか。ようは一人一人が漉くという態度で生きることが大事なのであり、それが緩やかにまとまり、結状に展開していって欲しい。願わくは、その探求の初動の契機に「産土」の二文字が入っていて欲しい。主語を自分に住まう地域に変える事で、吐く言葉もとるシグサも変わるのではないか。

…自分の考えはもうたくさんだが、最後にもう少し書いてみる。

鹿児島の民俗学者から聴いたのだが、共産圏のラオスでは軍人が皆伐を断行しつづけているが、山の上だけは祟りを恐れ残すのだという。それをピ信仰という。はたまた今回の参加作家であるイギリス人のルーファスが、神山のどこかの山の上で散歩中、突然恐怖に襲われて廃れた神社に手を合わしたのだという。彼は無神論者である。…なぜそんな不合理なことを未だに人はするのだろうか。

旅を続けて思うことがある。

日本は、どこまでも開発され過ぎている。橋梁は海にそびえ山はトンネルだらけだ。原発の付近に立って見ると賛否を云々する前にどこか異様な、地獄と形容したくなるような感覚に襲われる。かつての聖地はガソリンスタンドに塞がれ、参拝日は忘れられ、山の神・田の神の繋がりも混線脱線し捩じ切れて森は廃棄物に覆われ尽くす。そこで素朴に思うことがある。

ーカミがそこにいるならなぜ怒らないんだろうか、と。

祟りは、まだあるにはあるのだ。いくつかの事例も聴いたし、自分自身ニソの杜の奥がに入り込んだ後、なにか変な感じがあった。たしかに羽田空港や大手町の将門の首塚みたいな例外はある。があちこちで産土は糊塗されつづけている。怒っているという話しも聞いたこともある。

だがカミはなぜ人間の開発を拒まないのかそれが不思議だ。僕の暫定結論は以下だ。人はそれでも、祭祀をしつづけているからだ、と。習合の習合を重ね、変遷を繰り返し、神と仏の首を相互にすげかえても、人は祈り続けてきたのだ。無論祈れば何をしてもいいというわけではない。が、何かを恐れ敬う気持ちがある限りにおいて、僕らは守られているのではないか。…産土は僕らをまだ見捨ててはいないのだ。

長岡参

 

12 2月 ’14 産土

「脱帽」
2012年の大晦日にしたように、今年も最後の日に合わせて映像を作ることができました。
「続く」という文字で終わった『産土』の続編となる、『産土 ー壊ー』という作品の長尺予告です。
詳細な説明は今は省いておきますが、ややもすると忘れてしまう大事なもののことを、想うきっかけに
なったらよいなと思い、敢えてこの日に見れるよう、ちょっとだけ頑張ってみました。
(それにも増して大変な本編の編集作業が残ってはいるのですが…)
僕自身は編集しながら、不覚にも何度も何度も泣いてしまい、中々捗らなかったです。
12月に山梨県早川町で『産土』の上映を終えた後、
自分の無力さ、非力さについて悔いました。
「なんかの答えがあると思って来たのですが、厳しい現実を再度突きつられた」という
声も頂戴しました。
自分がこの地域のことをとりあげても、なんの解決にもならないではないか。
上映を終わった人々の顔に、なんともいえぬ悲しさのようなものが漂っているな、と。
自分自身は前作、悲観を土台に製作しませんでした。むしろ楽観すらしていたといっていい。
おそらくは東京の空気を引きずる、現実を知らぬ若造と外国人の或種の陽気さがあったかもしれない。
たとえば、久高島の秘祭・イザイホーを「もう終わってしまったこと」と敢えて言い、
きっと復活するだろうということを暗に匂わせたつもりでした(僕はそう感じたのだから)。
が、そこに「希望」を読み取れた方はどれくらいいたでしょうか。
福島を回ってから軽度の鬱のような状態になり、まったく癒えない疲れを引きづって、夕べには室戸の太陽を見れば、
明日には敦賀から日本海を望むような生活をしてみて、どこにも逃げられないような感覚に襲われました。
産業道路や高速道路や、バイパス付近の風景はどこも異様に似すぎていて
いったい自分がどこにいるのか分からなくなってしまい、あるシラケに似た感情が出て来た。
上映会を終えて、再度袋井市でび撮影後、浜松方面に移動しながら、今の今迄撮影してきた地の神の祭のような原始的な信仰がありながら、その当日に、老人を否む中年の夫婦の罵声や、パチンコ屋や、着飾った若者達のデートや、享楽にあけくれる日曜日の浮ついた町並みがどうしても耐えられなくなり、吐き気のようなものが出て来て、どうしようもなく車を停めてじっとしていました。町並みが自分の実家のある、四街道市から千葉市へと至るそれに酷似していたことも、おそらくその吐き気の遠因の一つだったでしょう。
目の前の、防波と燃料という役割と、景観美を誇った松林が、海から人を遮断するコンクリートの堤に代替される。
まるで獣害によって電流のとおる電線に囲まれた「人間居住区」に住む山の生活のように。
江戸の大津波から人を救った命山という小さい岡の話しを聴き、最初の取材時にはつくりかけていた「現代の命山」が
2度目にはほぼ完成されて小高い公園として、非力に、かつもっともらしく眼前にある事を知ったけども、
いずれこの遠州の海岸線のかなりの部分が、防波堤に囲まれ、その土はあの山から切り出すのだ、
そしてそこにニュータウンを建設する話しがもうすでに決まっているのだ…といったような話しを又聴き、
なんのために自分はその山向こうの祭や森を切り取っているのか、まったくもって無力ではないかと…。
しかしそれでも、自分は諦めないつもりであります。そう、おぼろげに呟いてみる。
「放射能を『荒ぶる神』だと私は捉える」と、或る福島の女性から聴きました。
幼稚なポジティブシンキング等ではなく、それはもはや祈りの領域です。
そこに、僕自身は希望を見出すことができました。
自分のやり方は、プラカードを掲げてシュプレヒコールをあげることではなく、
映像をつくることしかできないですが、それでも映像の力を信じれるようにはなった。
11月に嫁の父が他界しました。彼は目が不自由で、視界の8割くらいはほぼ見えていなかった。
しかし前作のDVDを僕が渡すと、なぜか毎日亡くなるまでそれに見入ってくれていたようでした。
作り手としては、前作は多いに不満が残るデキです。時間があれば、全部直してしまいたい。
機材の準備も取材そのものの期間も、全部もう一度時を戻してやり直してしまいたい。
が、それでも何かを感じてくれた人がいる。
8月にカナダで上映会をやった時、次作に繋げてくれと円に換金された募金の
一万3000円を手渡されたました。海外にも、僕らの映像を待ってくれている人がいる。
時間も予算も人手も、多いに限られている作品ですが、それが「潤沢にあれば」という発想を
もう捨てようと思います。予算や時間の多寡にかかわらず、これは2013年の僕とその仲間達が、
精一杯やった結果なんですから。僕には視聴率も編成もスポンサーのご意見もないのだから、
自分自身の拙さも含めて、それが「現在」なのだと、腹を括って、笑いたい。
自分に出来ることは、大事だと思う場所に勝手に赴き、帽子を取って「はじめまして」と言い、
「撮らしてくれませんか」と問い、それを映像に納め、世に問いかけること、それだけです。
一つ何かを撮ったことで、また何かを撮らなくてはならなくなる。
撮り残し、撮りこぼし、撮り忘れ、撮りそびれます。それも含めて、自分自身です。
しかし僕には、日本のあちこちに、親のように、祖父や祖母のように、思えるような
人生の師が、たくさんできました。それが財産です。
心配してくれたり、叱ってくれたり、古いものを教えてくれる人々が…。
諦めるということではなく、教えて下さいという気持ちで、僕は帽子をとって
その人たちの想いを傾聴してきた。(無論受け入れられない事もあるが…笑)
ともかく、これはそういう記録です。
そして又これは、予告編にもあるように、神山という小さな町で生じた「縁」で集った仲間が、
「小さな勇気」をだして製作したことを特筆すべき映画です。ほとんど、映画作りの専門家はおりません。
しかし、ここまでには形にする事ができました。
できればこれをご覧になられた奇特な方々にも、ぼくらの仲間になって貰いたい。
まだつくらなくてはならないものが、いくらでもあるのですから。そう願っています。
あと何年続けられるかわかりませんが、
精一杯続けていく覚悟だけは強め乍らの大晦日の晩。
今年もみなさま、たいへんお世話になりました。
(できれば下部のHDボタンをONにし、全画面でご覧下さい)
長岡 参(喪中により、新年のご挨拶と換えさせて頂きます)

産土 / Ubusuna short trailer
made by Koji Hirose (Professional Trailer Maker)

予告編ロングバージョン: vimeo.com/56502385

 

神山在住の予告編づくりプロフェッショナル、広瀬浩二さんにひょんなことから知り合い、産土の予告編を作って頂きました。僕の映画学校時代の同期から「先輩が神山に引っ越すことになったんでよろしく」との便りがあり、場所を聞いてみたところ徒歩3分くらいの場所にいられることが判明(笑)

 

それで今回の予告編につながりました。

広瀬さんは、『○シャンクの○○』とか『海の上の○アニスト』とか、僕の若かりし頃のウルトラリスペクト作『Pola○』とかの予告を手がけて来たプロ中のプロであります。そんな方が神山にひょっとこられたということがなんたる奇跡。。

タイトルやスクリプト、様々なことを含めて「チーム神山」で製作できたと云える『産土』ですが、

また1人、力強いプロの手をお借り出来ました。

この場を借りてお礼をば。

 

広瀬浩二さん:予告屋

 

 

また映像末にもあるように、自主上映希望者の方を募っておりますのでよろしくです!

 

PS.

広瀬さんの製作してくれたシークエンスを書き出すために久々にFCP7に触りました。

『産土』はFCP7で作っているので、仕方ないんですがずいぶんとプレミアになれちゃったんで隔世の感が。

いずれプレミアで、かつDavinci全面カラコレで、しかも内容もぐっとアップして『産土』ニューカット版を

お届けしたいと(自分の首をガチガチしめるかんじで)思いました。

 

 

 

 

9 12月 ’13 産土

UKETAMAU from Ben Ruffell on Vimeo.

 

去年の森キャラバン=『産土』の中で生まれたスピンオフ短編、UKETAMAUです。

僕は共同監督としてクレジットされています。

 

 

Pingmagに掲載された記事を参考までに。

Written by                   →English ver.

山は大変なことになるなっていう危機感を持っています」そう話すのは、山梨県の奈良田で温泉宿を経営する深沢守さん。国内でも特に山深い場所にある奈良田は、かつて存在した集落がダムの底に沈み、多くの住民が集団移転を余儀なくされた場所として知られている。今日ではそんな悲劇はまず起こりえないものの、鹿の過繁殖や川の水位の低下、唐松の植林による森林破壊など、現在深沢さんを悩ませている問題はどれも深刻だ。「どうなることやらですね、ちょっと心配です。特に山が心配です」

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奈良田は、2012年上旬に始動して以来国内各地で里山の集落を撮影してきた「森と共に生きる暮らし方」探訪キャラバンの停泊地のひとつだ。長岡マイル監督率いる同キャラバンは、徳島県神山町にあるNPO法人グリーンバレーが企画し、愛・地球博成果継承発展助成事業に採択されたプロジェクトで、撮影と企画に十二ヶ月にも及ぶ期間を費やし、長岡をはじめ停泊地ごとに異なる映像製作者を海外から迎えている。日本、フランス、ニュージーランド、シンガポール、マレーシア、イギリスといった各国の視点を盛り込んだこの映像の山――ダジャレのようで申し訳ないが、文字通り「山」である――は、その後長岡とトム・ヴィンセント(皆様もご存知、我らがPingMagの編集長)の手で編集・監修され、『産土』という二時間のドキュメンタリーとして五月にイギリスのダーリントンで上映された。また日本国内でもプライベートな試写会が開かれており、筆者も先日スパイラルで開催されたそれに参加してきた。

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『産土』とは神道の言葉で、その人の生まれた土地やその土地と人びとを見守る神を意味する。過日富士山が世界遺産に登録されて世間を賑わせたのを機に、今改めて観光業界の売り文句や愛国精神を抜きに、日本の山々や未だそこで暮らす人々の行く末について真剣に考えてみたい。

福島の原発事故後の日本では、持続可能性はこれまでになく重要な問題として注目されている。オール電化の家電製品はいまや巷に溢れ、望めば簡単に手に入る時代だが、現代の日本に昔のような環境に優しいコミュニティを作ることはできるのだろうか。江戸の町は、今日世界一を掲げる東京と同じく当時世界最大規模の都市だったが、驚くほど環境効率の良い町であったことでも知られている。細かいシステム作りを得意とする日本人らしく、その当時の江戸には都市が排出するごみを農業用の堆肥に加工するための処理施設まで既にあったというから驚きだ。同じように、今失われつつある里山の農村生活も、周囲の環境に配慮した小規模農業の素晴らしい見本である。

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奈良田の現状は深刻ではあるものの、山の集落は無気力とは程遠く、悲観すべきものではない。『産土』は映像の中で、そういった人里離れた、けれど足を運ぶ価値は十分にある様々な集落を紹介している。例えば茂倉の集落では、高齢化が進んではいるものの未だ元気な住民たちが、にわか仕込みの雨乞いの踊りを披露し、それがどうやら功を奏す様子が収められている。

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かたや稲又の集落には、毎日猪、熊、猿、鹿といった野生動物から畑を守る九十代のお年寄り、望月ふみ江さんがいる。唐辛子やドラム缶を使った焚き火で動物たちを撃退する望月さんは、沈痛な面持ちを見せながらも現実的だ。 「限界の村っていうのが現実だね。自然に人が減っていって、出た人が帰って来なければ、自然に消滅するよね。生きているうちだけ元気に暮らしていくしかないね。くよくよしても仕方ないから」

『産土』に登場する人びとは外から来た人間に対しても闊達で、カメラを携えたキャラバンの質問にも気さくに答えている。クルーが遭遇したそんな住民の中には、外国人のマーク・フェネリーさんもいた。フェネリーさんは、徳島県の木頭村で木馬(きんま)と呼ばれる運搬道具で山から運び下ろした材木を川に流して乗りこなす、『一本乗り』と呼ばれる特殊な材木流しの技術を住民に教える保存会に所属しているのだという。この技術が使われていたのは、材木が空中に張られたケーブルで運ばれるようになる以前のことで、熟練の技を必要とする大変に危険な仕事だったそうだ。「この辺の林業がすごく盛んだった時のかっこいい仕事、一番イケメンの人がやるような作業だったという風に聞いています」

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唯一キャラバンが話を聞くのに苦労したのは、沖縄の久高島だ。島の人びとは、撮影されることでカメラに魂を盗まれることを恐れたのだ。考え方が古い、もしくは前時代的だと感じられる方も少なくないだろう。だが島民と土地の結びつきは強く、それはタコや貝などの恵みをふんだんにもたらしてくれる海への感謝に根差したものだ。久高島には個人所有の土地という概念はなく、すべてはみんなのものという扱いだ。

久高島での話には、時に寒気すら感じさせるものもあった。久高島では、年に二回神様が島に降りてくる行事があり、その時期には島民すら足を踏み入れることができない場所があるという。「そういう時に間違って車とかオートバイとか持っていったらすぐ畑に出たりする」と島民のひとりは話す。「神様が通る道だから避けさせるみたい」 おかしな禁忌に時代遅れな迷信だと思われるかもしれないが、余所者である我々に何を言う資格があろうか。かつて久高島では、三十歳以上の女性が神女となるためのイザイホーと呼ばれる儀式が十二年ごとに行われていたが、この儀式は1978年を最後に途絶えたままだ。しかし神々は、きっと今もなおこの島に息づいているのだろう。

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日本文学の研究者であるデイヴィッド・G・グッドマンは、60年代から70年代にかけての日本のアングラ劇場文化におけるプリミティブな比喩表現やシャーマニズム的でありながらも時代を超えたテーマの増加について触れている中で、当時のアートシーンを「神々の帰還」と評している。どうやら自信が揺らいだりインスピレーションにひらめきを求める時、人は自分のルーツに戻ることで得るものがあるらしい。しかし中には、そもそも神々がこの土地を去ったことはなく、今もずっと共に歩み続けていると感じる人びともいる。

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神道のような自然信仰系の信念体系に対する西洋人の反応は、その大抵が「迷信深い」というものだ。西洋人にしてみれば、人類は論理的に考えて、単に自然というひとつの「ステージ」に上がっているに過ぎない。だが今日の日本の現代的な生活からは想像もつかないかもしれないが、依然としてそういった素朴かつ漠然とした、日常や風景に溶け込みながらもただ「そこ」にあり続ける信仰を持ち続けている集落も残っている。それは確たる形のある宗教とは言えないかもしれないが、都会でも田舎でも、神々への日々の感謝はほぼすべての日本人の胸に当たり前のようにあるものではないだろうか。

だがそれをよく「何を考えているのかわからない」と言われがちな東洋人のメンタリティとして片付けてしまう前に、一見非論理的な習慣や禁忌(例:なぜインドで牛が神聖視されるのか)の多くに、コミュニティを維持するための環境的な理由が隠されていることを説明したマーヴィン・ハリスのような人物についても思い出してみてほしい。そして我々は同時に、西洋的な衝動の最たるものである「すべてを解明し丸裸にせんとする心」を抑えることも忘れてはならないのだろう。

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落とし穴はそれだけに留まらない。日本の旅行代理店は、長年「ふるさと」という言葉が喚起するロマンチックなイメージで莫大な利益をあげてきた。だが郷愁やエキゾチシズムに偏りやすいテーマの中で、『産土』はさりげなくその中間に位置している。異国情緒はあれど、エキゾチシズムはない。各地を修行で渡り歩く山伏の苦行も、大仰な信仰の儀式というよりは日常のひとコマとして紹介されている。「日本人にとって山というのは、まず女の身体を表しているんですね。そしてその身体の中でも、やっぱり赤ちゃんが生まれてくる場所」 羽黒山伏先達の星野文紘さんはそう話す。またこの映像は一種の旅行記ではあるものの、その焦点は旅そのものや旅人ではない。ひとつの場所から別の場所へと淡々と移り変わるこのドキュメンタリーは、誇張もなければ見る者を急き立てることもない、まさに真の意味での「ドキュメント(記録)」なのだ。

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こういったアプローチは、日本の地方文化の擁護者、宮本常一に共通している。宮本がその生涯に歩いた距離はおよそ16万キロと言われており、彼は日本国内の隅々まで足を運び、人里離れた地域の人びとの話を記録した。そんな彼の地道だが鋭い観察は、1960年に代表作『忘れられた日本人』として出版され、一躍脚光を浴びている。しかしこういったコミュニティは本当に忘れられつつあるのだろうか?もしかしたら、我々が心配しているほどそうでもないのかもしれない。

日本の山や森は深刻な問題を抱えているが、今もなおそこで暮らし働く人びとがいる。そして彼らの持つ知恵――古きも新しきも――は常に活かされるのを待っている。「森と共に生きる暮らし方」探訪キャラバンもまたその旅を続けることが決定し、既に新たな地方集落をフィルムに収めつつある。きっと産土の神々も撮影スタッフを歓迎してくれるに違いない。

 

「森と共に生きる暮らし方」探訪キャラバン」
www.facebook.com/lifeandforest

NPOグリーンバレーとイン神山
www.in-kamiyama.jp/gv/

翻訳:山根夏美

10 11月 ’13 産土

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凡百の無駄な言葉で隙間を埋めようとするよりも、

ひとつの力強い具体が、そこにあれば良い。

 

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時を遡らせて、福島キャラバンの様子を紹介する。

撮影日は、9月18日。神山から松茂まで車で行き、そこからバスで神戸空港。

スカイマークで羽田まで行き、荷物がかさむためリムジンバスで東京駅迄。

今度は新幹線で那須塩原まで向かい、そこからやけにデカい予定外のレンタカーを借りて

深夜にほど近く、民宿「駒口」に到着した。

 

この写真に写っているのは、曲げわっぱを作る職人、星寛さん(85)。

この地方で「ネズコ」と呼ばれる黒檜で、水桶や弁当箱などの曲げものを作る。

野本寛一先生の著作で紹介されているのを見てから、どうしても尋ねてみたかった。

奇遇にも星さんは駒口の一家の親戚であるいう。

 

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星さんの作った曲げわっぱ。1人でたんたんと、作り続けている。

古いものにこだわるのではなく、「あたらしいものをとりいれないとなんねえ」と

何度も繰り返されていたのが印象的だった。

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取材目的であったカロウトという箱を見せてもらえた。

これは嫁入りの時に、嫁入り道具して持って来た物で、着物等々の私物を入れて一生使い、

死後、棺桶にもなるというものである。が、土葬の習慣が終わってからは、こうして

物置にしまわれていることが多いという。

 

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加藤さんに見せてもらった鹿放ヶ丘の古い地図。

ここは開拓前、陸軍の演習場跡地で、多くの開拓者がその弾をひろって臨時現金収入にしていた。

ちなみに僕が子供の頃も、小さい弾をいくつも拾って遊んだ記憶がある。

 

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近くの若月さんの牛小屋。

四街道で育てられた牛が、徳島に買われ、乳牛になるまで育てられたと聴いた事がある。

まさに、「牛の子の旅」である。

 

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いつも歩いていた小道。

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この原っぱが、いつまでこの光景であるだろうか。

 

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キャラバン隊が赴いた時、鹿放ヶ丘の慰霊祭が行われていた。

この中央のドームに、名も知れぬ人々が「土」に還って眠っている。

 

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こんな偶然があるものだろうか。

開拓者の1人、峯野芳夫さん。

なんと、神山鬼籠野の出身だという。

15の時に、万歳三唱で送られて、みなと同じく訓練のため茨城の内原に行き、

その後鹿放ヶ丘に根付いた。

 

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自分の歴史を辿ることは、父母とその先の来歴を辿ることだ。

 

 

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福島から少年義勇兵として出兵し、開拓団として鹿放ヶ丘に根付いた加藤昌司さん。

僕も子供の頃から知っているが、ちゃんと話しを聴いたのは初めてだった。

「福島に残っていたら銀シャリいっぱい食えた」というが、

苦惨の連続であった開拓をどうして続けて来れたのか、自分でも分からないという。

10年以上前に他界した僕の祖父が、彼ら開拓の人々の教官の1人であり、

祖父の話しを色々と聴いて、妙な気持ちがした。

 

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